虚無脱出

虚無を脱出している途中

なぜ頑張れないんだろう

内定がないまま大学を卒業してもう半年が経とうとしているのに就職活動も、大学院の進学も、
留学も何もかもやる気が起きない。自分は死んだほうがいいんじゃないかという思考がぐるぐるしている上に何かを始めようとするとどうせ失敗するんだから何をしても無駄だ、という考えにしかたどり着かない。夜になると体と心が重くなり勝手に涙が出てくる。解決策はあるんだろうか。精神科に行こうにも金がないから行けない。生活費は自分で稼がないといけない。病院なんか行ってしまうと金がいくらあっても足りなくなる。だから酒が精神安定剤なのだ。アルコールの作用によって脳が鈍感になり必要以上に悪いことを考えなくて済むようになるのだ。酒が合法の社会で本当に良かった。

樹海に行けなかった話

4/1になった。世の人々は新生活がスタートする日だ。大学卒業しても何もやるべきことがない僕はとてつもなく樹海に行きたいという欲望があったので何かに誘われるように青木ケ原樹海に向かうため長距離バスに乗った。

はっきりとした動機はないのだが、生への活力を取り戻したかったというのが理由のひとつ。樹海に思い詰めた顔をして入っていく人や樹海の中で人だった物体(実際にはそんなにごろごろ転がってるわけではないらしいが)を目の当たりにすることで反作用としての生への渇望が湧いてくるのではないかと期待していた。鬱々とした気分が無限に湧き生きるのが辛いと思っていてもいざ自殺をしようとするとすんでのところで思いとどまることがほとんどである、というのと同様に、死に瀕している人々や死自体を見て生きる気力を出そうとしたのだ。

乗っていた長距離バスは東京から西へ西へと走り次第に窓から高い建物が減り、山と川に囲まれたまばらな家々が見える光景に変わっていった。

2時間ほどで樹海への最寄り駅河口湖駅に到着した。日本人よりも外国人観光客が多い。Mt.Fujiを見に来たのだろうか。
ネットで調べると駅から循環バスに乗って西湖コウモリ穴で降りると樹海に行けるとあったのでバスロータリーにあった2.4℃という温度計を眺めながらバスが来るのを待った。どうやら駅から向こうに行く便としては最終らしく案内係が後ろで外国人旅行客にアナウンスしてるのが聞こえた。手が完全に冷えたところでバスが来た。駅を離れ宿密集地帯を抜けてどんどん景色が寂しくなってきた。窓から外を見るとさっきから少しずつ降ってきた雨が次第に雪に変わっていく。

停留所を5つほど通過すると乗客が僕の他に2人だけとなった。景色の寂しさとは対照的に雪が強く降ってきた。白い世界。移動中にスマホで調べると、西湖コウモリ穴で降りて樹海散策した後は河口湖駅まで行くバスがなくなってしまうことに気づいた。再び窓から外を見る。最悪歩いて駅まで戻ることになっても歩けるだろうか―いや、雪が降ってる上に明かりもなければタクシーもつかまらないほどの田舎だし歩くのしんどくて死にたい気分が増しそうだな。と自問自答した。

西湖コウモリ穴に着くまでのバス停5つほどは千と千尋の神隠しの冒頭に出てくるような(つまり千尋が異界に行く前のトンネル前のような)苔むした場所が多く、異界に誘われそうで怖くなってきた。ひょっとしたら自分以外の乗客は全員自殺しに行くのではないか、とまで思えた。

樹海の入口から駅まで歩いて2時間ほどだったので最悪歩けなくもない、ここまで来たら行ってみるかと腹をくくった。「次は 西湖コウモリ穴、西湖コウモリ穴」とバスのアナウンスが流れるとつぎとまりますボタンを押した。その直後で運転手が何か言ったが聞き取れなかったので無視した。

西湖コウモリ穴で停車。バス停の近くに民宿であろうか、記念館的なところであろうか、ロッジハウスのような建物があった。散策した後はこの建物で暖をとるか.......と思いSUICAをバスの運賃箱近くのカードリーダーにタッチしようとしたら怪訝な顔をして運転手が「本当に降りるの?ここはもうクローズだよ?17時過ぎてるからこの先のところも全部クローズされてるから。降りずに駅まで乗ってけばどうです?」と早口で制止し自動ドアを閉めた。確か軽装備の若者が終バス後に樹海に行くのは観光目的にしては不自然だし自殺しに行くと思われたのだろうか、降りるのをここまで引き留める運転手を初めて見た。

折り返し地点を過ぎ循環バスは駅まで僕を連れ戻してくれた。バスはそれぞれの停留所で駅まで戻る外国人観光客を拾っていく。車内は再び次第に賑やかになった。さっきとは逆だ。
吹雪がよりいっそう強くなる。大粒の雪がバスのフロントガラスに叩きつけられていく。木々には雪が積もっていく。クリスマスと言われたら思い浮かぶ光景がこれだ。
4月の最初に見た雪はとても美しかった。

午前3時より前に寝付けなくなった

ここ最近、寝ようと0時には布団に入るのにいっこうに寝付けないのです。

例えるなら夏休みの宿題をやり終えてないような後味の悪い不安で押し潰されそうになるのです。

前やりたいことが本当の意味ではないと書きましたが、無いわけではないのです。むしろあるのです。しかし生活を成り立たせることのできるものではないので、ないとカウントしましたが、ついこの間好きなことを発見できたのです。このようにネット上に駄文を書き連ねることこそが本当に好きで続くものだと気づきました。気づくのが遅すぎたようです。学生でいる間の早いうちに気づいていれば卒業するまでにはブラッシュアップでき何らかの形で胸を張れるレベルになっていたかもしれない......


今夜も寝れないので仕事内容に特に興味はなく心から頑張りたいとは思えないですが、親から受けろと言われた公務員試験の参考書をめくりながらため息をつく夜になりそうです。現実を見ざるを得ない日々が辛い。甘えたことしか言えない。それも悔しい。

【閲覧注意】ただの陰鬱な文章

虚無状態や鬱気味な気分を脱却しようという前向きなブログを書くつもりでいたのですが最近心の中が負の感情でいっぱいになっています。

そこまでできるわけでもなく元の頭も良くないのに興味のあることが勉強や学問、文章を書くことだけの人間に育ってしまう最悪のパターンとなってしまいました。単位が足りて何もないまま大学を卒業してしまうことに何の焦りも生まれなくてその無気力な自分に対して情けなく思っております。


幼い頃から勉強は好きでした。小学生のときまで家にある図鑑を読破し恐竜や天文、地理など書いてあるものを暗唱できるくらい好きで覚えられていたものです。

中学生になり受験期に塾に入ると世間には自分より地頭が良く勉強ができる層がたくさんいることを知ります。日本の端にある田舎出身なものですから、お受験や受験競争は都会に比べたら穏やかなもので、幸か不幸か思春期以前に自分よりできる同級生を見たことがなく自分は何も特別な存在ではないんだということを知りました。これは当時の自分にはとてもショックでした。スポーツや音楽などに秀でていればまだプライドを保てたと思うのですが、自分の中で一番高いスペックが勉強だったので、得意なはずの勉強ですら自分より少ない努力量(実際には皆努力をしているはずなのですが、筆者から見たらそう見えたのです)で遥かに上の位置にいる同年代の存在が脅威でした。

高校は第一志望の学校に入れたわけですが、県内トップレベルの学力を持つ子が多く入ってくるところだったので中学の時以上にプライドが傷つきます。英語が得意で中学のときは勉強しなくても自分より高い点数を取る人は周りにいなかったのでいい気分になれましたが高校では得意な科目ですら人並みの努力だけではトップクラスの順位になれず。自分の相対的な頭の悪さに嫌になる毎日でした。

特に一番ショックだったのは大学受験。判定も良く3年間志望し続けていた大学に落ちてしまいます。努力は平気で人を裏切ってくる。打たれ弱い自分はその事実に打ちのめされて、第二志望の大学で漫然と過ごし本当に馬鹿になってしまいました。縁あって志望していた大学に途中から編入できたものの漫然と過ごしていた時間が長く基礎学力が足りないため努力しても単位をぼろぼろと落とします。本当に無能だ、と心の中の何かが叱りつけるのでした。

もちろん世界はそれだけではないと思い、働くという分野において自分は適性があるのか確かめたく、(もっとも、小遣い稼ぎの理由が9割でしたが)バイトを始めてみるも要領や手際、愛想が悪く上の人から怒られたりもう少しちゃんとやってくれないかと小言を言われることが多く、ここでもプライドは打ち砕かれます。

趣味(ここではジャンルは伏せますが)も、それなりに努力しているのに出来は悪くセンスがないと自分でも感じることが多く、経験年数の割に本当にひどいもので、好きなことですらこのざまなのかとまたもや自分に失望。

安定して金を稼いでいける将来やりたい仕事や目標も決まっておらず悶々とする日々が続いています。前の記事で書いたように手を動かしたり何かに挑戦したり、順位や人の評価を気にしないということに気をつけていてもふとした瞬間のマイナス思考のグルグルが止まらず苦しんでいます。どうせ何をやっても自分の能力ではうまくいかないという思考から抜け出せないのです。せっかく編み出した虚無脱出方法も限界のようです。

煙のようにさっと消えられたらどれほどいいか。こんな陰鬱な記事を書く暇があったら寝てコツコツと努力するだけでマシになることはわかっているのに...とても悔しい。そしてこんなことを悲劇のヒーローぶって書くのもとても格好が悪い......

睡眠とお金と虚無

久しぶりの更新となりました。

気分が落ち込みやすい、凹みやすい、無気力になりやすいと評判の冬ですね。

日照時間の少ない季節でどうしても気分が落ち込みやすいというのは仕方がないとして、何か他の要素でカバーできないか、ということを考えてみたいと思います。

さて今回は、

精神状態と関連の深そうな睡眠(時間帯や睡眠時間)と、経済状況(お財布の状態)について今回は自分自身を使って実験してみました。


12月に20日間使って、5日間に区切り、金欠期間/お財布ホクホク期間/早寝早起き期間/遅寝遅起き期間の4つの期間をもうけてそのときの精神状態について考察した結果をまとめてみました。

題して、「虚無と睡眠/金欠の相関についての考察」

【睡眠】
・早寝早起き生活
夜1時までに布団に入り目を閉じ朝8時までに起床する生活を早寝早起きと定義する。

〈早寝早起き生活の結果〉
最初は1日のタスクが終わらない日に早く寝ることに抵抗があったが、朝起きてからやったほうが圧倒的に能率が上がることに気づき安心して早寝ができ精神が安定。健全な思考であふれるようになる。全く落ち込む機会がなくなったわけではないが、10あったものが1程度に減った。

・遅寝遅起き生活
夜3時以降に寝て、用事や大学の授業がない日を除いては正午過ぎに起きることを遅寝遅起きと定義する。

〈遅寝遅起き生活の結果〉
フィジカルな点では、内蔵の調子が悪くなる感覚があり、そのせいで気分も悪くなりがち。タスクを夜に消化しようとするがあまり速くは進まず、さらには深く論理的で生産的な思考ができなくなるため能率は推して知るべし。遅くまで起きているとお腹がすくため夜食を食べるようになり、その都度「あぁ...自分はクズな生活送ってんなあ」と自分の中の良心からの声が聞こえてきて心の耳(!)が痛くなる。心身共にやられる感じ。

【経済状況】
・お財布ホクホク生活
財布に2万円を用意し、5日間で使いきるように生活してみた。

〈お財布ホクホク生活の結果〉
外食するにしても自炊するにしても美味しいものを買う余裕ができるので、食はこんなに楽しいのかと生きること自体も楽しくなってくる。安くて酔えるス◯ロング缶ではなく美味しくて上質な味のするお酒を飲むことで気分がゴージャスになり世の中がイージーモードなのではないかと錯覚する。食べたいもの、飲みたいものを気にせず変えるためストレスがなくなる。

・金欠生活
財布に3000円だけ入れ、その予算から足が出ないように5日間生活してみた。

〈金欠生活の結果〉
実験した時期は筆者がそれなりに食欲があったため、食事はなるべく貧相にしたくなかったのでペットボトル飲料を買うのにも財布と相談した結果、大学の冷水機でいいか....や、味気ないけど家から水筒を持っていくか....と色々なことをあきらめ始め、なぜか悲壮感が増えていった。筆者は酒が好きなため、我慢しなければいけないのもかなりつらさが増し、生きていくのが嫌になった。生きる目的がわからなくなる。


【まとめ】
すごく当たり前ですが、まとめとしては、遅寝遅起きや金欠状態は精神によくない影響をかなり及ぼします。ただ、筆者自身は遅寝遅起きよりも金欠の方が精神にこたえたので、マシ度としてはおそらく遅寝遅起き≧金欠 なのでしょう。睡眠時間自体は早寝早起きと遅寝遅起きとでは変えてないので、睡眠時間の長さを変えて実験したらまた変わるかもしれませんね。


筆者はまだ学生なので、精神のためには給料が高く早寝早起きができるほど毎日定時であがれるような仕事に就きたい願うばかりです。(日本にいくつそのような職場があるのだろうか)

劣等感、自己肯定

今回は「周りの人が自分よりもできる人で自分が無能だから押しつぶされそう」「自分の無能を自覚していて自己肯定ができない」といった思考を改善して断ち切る方法について考えていきます。

といっても僕はそこらへんにいるごく普通の大学生(2018年11月現在)なので社会に出て人生経験がある大人の方に比べたら全く深いことは述べられませんので、あくまでこれは大学生以下へ向けての記事になりますご了承ください。

僕は高校生の時からつい最近まで劣等感に悩まされ自己肯定感が恐ろしく低かったのです。というのも、中学校までは公立の中学校に通っていて成績が良かった方で、自分にとっては「成績」が良いというのが自分のアイデンティティだったのです。が、県内でも有数の進学校に進学したことにより、見事に埋もれてしまったのです。思春期の僕にはとてもつらいことでした。部活などその他のことで秀でられれば良かったのですが、それも能わず。もともとどんくさい人間なので、委員や部長をやっても自分の根底の性分から向いてないことが分かり事実全くうまくいかずに何をやっても無能だと感じネガティブな思考をする癖もあり慢性的に自分は人より劣っているのだと抑うつ状態でした。

しかし、最近では慢性的な劣等感を感じることはなくなりました。特にターニングポイントといえるきっかけはないのですが、高校を卒業して、大学に入って高校より生い立ちも多様な同年代がたくさんいる環境に身を置いたこと、バイトを始めたことにより視野が広がったことが理由の一部かと思います。

人間はすべての面において誰かに秀でることはできないのです。確かに比較的多くの分野がまんべんなくできる人と、自分にかっちりハマる、向いている分野が少ないという人の違いはあるかもしれませんが人間はひとつのものさしだけで能力は測れないのです。Twitterで「俺は速水もこみちにはなれないけどもこみちもまた俺にはなれない」という迷言を見たことがあるのですが、まさにその通りだと思っています。

自分よりルックスもよくて勉学も秀でてる人でも、自分の方が人のことを考えて行動するのはずっと得意である。自分が毎日欠かさずしてるTwitterのツイートのキレは陽キャウェイ就活無双大学生よりも素晴らしい。といったような小さな自己肯定を積み重ねることで劣等感の呪縛から解放されます。断定することはもともと好きではないのですが、これは確実に言えます。

あなたが秀でているところは必ずあるので、自分が能力を発揮できる環境に身を置くか、自分が得意になれる趣味などを見つけてみましょう。

「コミュ力」―ただのぼやき

※今回は特に解決策を与えたりといった内容ではないので、ポジティブになりたい、解決策がほしいという気持ちでこの記事を読んでいる人は読むのをやめた方が時間の無駄にならずに済みます。

今回は人間関係、特に「コミュ力」に関することについて書いていきます。

突然ですが、中途半端な距離感の知り合い(例えば、同じコミュニティでお互い顔見知りであり名前も知っているけれどそんなに話さない距離の相手)とのコミュニケーションってすごく困りませんか?

僕は中学生の頃から休日に意図せずしてショッピングモールなどでクラスメートを見かけても知らないふりをして逃げる(相手の視界に入らないようにする)人間だったので、仲の良い人以外でふとエンカウントするとどうコミュニケーションを取ったらいいのかわからないのです。

なぜかということを大学からの帰り道で考えていたのですが、適度な距離感を保とうと話す内容を考えてぎこちない会話をすることが疲れるから、というのがひとつだと思いました。深く考えずにコミュニケーションが取れるならそれはそれで楽なのですがね。なんというか、これは陰キャの宿命だなと。

そもそもコミュ力もといコミュ障とは何なのか。周りの若者がコミュ障という言葉を使っている文脈から判断すると、どうやら「私コミュ障だから~」というのは「人見知り」という意味で使っていることが多い気がします。(例:私コミュ障だから就活で周りの就活生と話せなかったわ)

「コミュ障」の定義が「初対面の人と話すのが苦手である」ということならば、友人の数が決して多くない僕でもコミュ障の定義には当てはまらないということになります。僕は全くの初対面の人と話すのはそこまで苦労しないと感じるのです。なぜなら話す(話さなければならない)ことが決まっているから。自分のプロフィールを話しつつ相手のプロフィールも聞き共通点があればそれについて話せばいい、会話の展開のセオリーが単純明快なのです。

それに対して、顔も名前も既に知っている「知人」とどのように話を広げていくか、仲良くやっていけるかというのを考えて実行する方がむしろ大変だと思います。

最初の話題に戻りますが、仲がすごく良いという訳ではないけれどもすれ違ったときに無視で済ますほどに遠い関係ではない人とどうコミュニケーションを取ったらいいのでしょうね。

理論上考えつくのは、接触する機会を増やし心的距離を縮めてコミュニケーションの気まずさ、ぎこちなさをなくすことで仲良くなるということでしょうか...しかしそもそも接触する機会が増えたからといって仲良くなれる相手だったらそもそも苦労してないか...うーん、今後の記事でまた考えていくべき問題ですなあ。他人と打ち解けるという意味での「コミュニケーション能力」、欲しい.....。